悩みと不安の対処法
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悩みと不安の対処法
このページでは、悩み(苦悩)というものについて考えてみます。
(なお、文中に仏教からの引用などが有りますが、当協会は特定の宗教とは一切関わりはありません)
さて、仕事・恋愛・病気・金銭 等いろいろな悩みが人生には有りますが、仏教によると苦悩は大きく8つに分けられています。
それは下記の通りです。
1 誕生
2 老
3 病
4 死
5 愛するものと別れること
6 憎らしいものに遭うこと
7 欲しいものが手に入らないこと
8 燃えたぎる煩悩
このうち1と8はわかりにくいのですが、2から7は納得して頂けると思います。
(余談ですがこのうち1から4を四苦、そして5から8を加えて四苦八苦と呼ばれます)
老いるのは嫌だし、病気は嫌だし、死ぬのはもっと嫌。
愛する人や大好きな友人、そしてペットと別れるのは嫌だし、家で嫌な姑と暮らすことや会社で嫌いな人と一緒に仕事するのは嫌。
欲しいものが手に入らないことは嫌だし、思うとおりにいかないと嫌。
欲求がかなえられないのはとっても嫌。
嫌なことを避けられないのは苦痛。
確かにそうです。
しかし、このような悩みはいったいどうすれば解決できるのか。
これが問題ですよね。
『頑張れば解決できる』というものではないという事は確かのようです。
…というか、実は頑張っている人ほど、悩んでいるかもしれません。
じゃあ、どうしたら?
前向きに積極的に頑張る?
今の日本はアメリカを追っかけ、積極性をとても重要視しています。
もちろん人生に於いて積極性というのはとても大事な事だとは思います。
しかし、積極的に悩みや苦悩にぶつかって頑張って片付けていけば、いつかは悩みは全てなくなるものなのでしょうか?
ここで、少し長いのですが明治時代に夏目漱石が「我輩は猫である」の中で、哲学者の独仙に語らしめた言葉を引用させていただきます。
(以下引用文)
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(中学生に嫌がらせをされ、怒る主人に対して)
哲学者先生はだまって聞いていたが、漸く口を開いて、かように主人に説き出した。
「ぴん助やきしゃごが何を言ったって知らん顔をしておればいいじゃないか。
どうせ下らんのだから。
中学の生徒なんか構う価値があるものか。
なに妨害になる?
だって談判しても、喧嘩をしてもその妨害はとれんのじゃないか。
僕はそう云う点になると西洋人より昔の日本人の方が余程えらいと思う。
西洋人のやり方は積極的積極的と云って近頃大分流行るが、あれは大なる欠点を持っているよ。
第一積極的と云ったって際限がない話しだ。
いつまで積極的にやり通したって、満足と云う域とか完全と云う境にいけるものじゃない。
向うに檜があるだろう。
あれが目障りになるから取り払う。
とその向うの下宿屋が又邪魔になる。
下宿屋を退去させると、その次の家が癪に触る。
どこまで行っても際限のない話しさ。
西洋人の遣り口はみんなこれさ。
ナポレオンでも、アレキサンダーでも勝って満足したものは一人もないんだよ。
人が気に喰わん、喧嘩をする、先方が閉口しない、法庭へ訴える、法庭で勝つ、それで落着と思うのは間違さ。
心の落着は死ぬまで焦ったって片付く事があるものか。
寡人政治がいかんから、代議政体にする。
代議政体がいかんから、又何かにしたくなる。
川が生意気だって橋をかける、山が気に喰わんと云ってトンネルを掘る。
交通が面倒だと云って鉄道を布く。
それで永久満足が出来るものじゃない。
去ればと云って人間だものどこまで積極的に我意を通す事が出来るものか。
西洋の文明は積極的、進取的かも知れないがつまり不満足で一生をくらす人の作った文明さ。
日本の文明は自分以外の状態を変化させて満足を求めるのじゃない。
西洋と大に違うところは、根本的に周囲の境遇は動かすべからざるものと云う一大仮定の下に発達しているのだ。
親子の関係が面白くないと云って欧洲人の様にこの関係を改良して落ち付きをとろうとするのではない。
親子の関係は在来のままで到底動かす事が出来んものとして、その関係の下に安心を求むる手段を講ずるにある。
夫婦君臣の間柄もその通り、武士町人の区別もその通り、自然その物を観るのもその通り。
山があって隣国へ行かれなければ、山を崩すと云う考を起す代りに隣国へ行かんでも困らないと云う工夫をする。
山を越さなくとも満足だと云う心持ちを養成するのだ。
それだから君見給え。
禅家でも儒家でもきっと根本的にこの問題をつらまえる。
いくら自分がえらくても世の中は到底意の如くなるものではない、落日を回らす事も、加茂川を逆に流す事も出来ない。
只出来るものは自分の心だけだからね。
心さえ自由にする修業をしたら、落雲館の生徒がいくら騒いでも平気なものではないか、今戸焼の狸でも構わんでおられそうなものだ。
ぴん助なんか愚な事を云ったらこの馬鹿野郎と済ましておれば仔細なかろう。
何でも昔しの坊主は人に斬り付けられた時電光影裏に春風を斬るとか、何とか洒落れた事を云ったと云う話だぜ。
心の修業がつんで消極の極に達するとこんな霊活な作用が出来るのじゃないかしらん。
僕なんか、そんなむずかしい事は分らないが、とにかく西洋人風の積極主義ばかりがいいと思うのは少々誤まっている様だ。
現に君がいくら積極主義に働いたって、生徒が君をひやかしにくるのをどうする事も出来ないじゃないか。
君の権力であの学校を閉鎖するか、又は先方が警察に訴えるだけのわるい事をやれば格別だが、さもない以上は、どんなに積極的に出たったて勝てっこないよ。
もし積極的に出るとすれば金の問題になる。多勢に無勢の問題になる。
換言すると君が金持に頭を下げなければならんと云う事になる。
衆を恃む小供に恐れ入らなければならんと云う事になる。
君の様な貧乏人でしかもたった一人で積極的に喧嘩をしようと云うのが抑も君の不平の種さ。」
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以上引用文
しかし、夏目漱石って本当に偉いですね。
明治時代に、現在でもハッとすることをわかりやすく書いています。
確かに「いつまで積極的にやり通したって、満足と云う域とか完全と云う境にいけるものじゃない」ですし、「只出来るものは自分の心だけ」なんですよね。
人は必ず『老い』ます。
『病』に絶対ならないという健康法はありません。
人はいつか必ず『死』が訪れます。
そして、『出会い』が有れば『別れ』がいつか来ます。
『嫌な人』が一人もいない状態が一生続くということもないでしょう。
人間なんだから『欲』という煩悩は、有って当たり前です。
ところで、欲が悪いというわけではありません。
ただ、『欲(欲求)が叶う』のと『幸せ』は同じではありません。
なぜなら、『欲(欲求)が叶う』と確かに満足しますが、その満足は次第に低下していき、「もっと、もっと」となる場合が多いんです。
さて、『欲』に動かされて人生を送るか。
それとも、どういう人生を生きるか?
『幸せ』な人生を送るためには、やはり「只出来るものは自分の心だけ」ということなんでしょうね。